真相

唯色 | 我的博文<我们的拉萨快被毁了!救救拉萨吧!!>的日文译文

【转自 http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51789067.html 。感谢译者及博主 @tonbani @yuntaitai @tibetweeterTYO !】 ウーセル・ブログ 改訂版「私たちのラサがもうすぐ壊されます!ラサを救ってください!」  ウーセルさんは、2日前のブログに載せた「私たちのラサがもうすぐ壊されます!ラサを救ってください!」の改訂版を2日後の7日付けで発表されている。書き足らないと思われたのか、新たな情報とともに写真も増やしておられる。この改訂版もさっそく@yuntaitaiさんが翻訳して下さった。 パルコル沿いの住民は全員ラサの西に移住されられるという。「引っ越しを望まないあるお年寄りは気が変になってしまった」そうだ。まったく酷い話である。ジョカンを中心としたチベットのもっとも聖なる地区が、おぞましいただの悪趣味な一見なんちゃってチベット様式中身は中国風観光繁華街になりそうで、まったくやりきれない話である。 原文: http://woeser.middle-way.net/2013/05/blog-post_7.html 世の移り変わりをずいぶんと経験したジョカンの前には今、遠くカムやアムドから五体投地で来た巡礼者はいなくなった。何千何万ものバター灯明を昼も夜もともしていた小屋もなくなった。そこにいるのはただ、住宅屋上の狙撃手と完全武装でパトロールする兵士だけだ。そこにあるのはただ、官民が結託した巨大商業施設の相次ぐ開業だけだ。商業施設の入り口で、風に吹かれる真っ赤なバルーンの柱が、下品な成金のチベット侵入を誇示する風景だけだ。 ◎私たちのラサがもうすぐ壊されます!ラサを救ってください! 私たちのラサがもうすぐ壊されます! これは決して大げさな話ではありません! ラサに行った旅行者が新浪微博に書いた。「今日、はっきりと分かった。ラサの目標は麗江のような贅沢三昧のやかましい観光都市になることだったんだ。旧市街の全ての露店とか旅館とか、安めのサービスは旧市街から出て行かなくちゃいけない。高級な骨董品屋やホテルと入れ替わるんだ。それに旧市街の建物は全部、外観や看板をそろえないといけない。まさか中国の都市には、ばかげた韓国式の美容法しかないのかね?」 添付された写真の中には、建設中の「ラサ・バルコル商城」の「工事概況」があった(建設地は城関区政府跡地で、ジョカン周囲の巡礼路バルコルの北東。バルコルからはとても近く、同じように旧市街の中にある)。延べ床面積は15万平方メートルで、地下駐車場だけで1117台を収容するという。 昨年末にオープンした官民合同の巨大商業施設「神力タイムズ・スクエア」はラサ旧市街の北側にある。地下駐車場を造るために2年以上にわたって地下水を吸い上げ、旧市街で亀裂や陥没、ひどければ巨大な穴ができるのではないかとラサ人を心配させた。実際、既に数多くの亀裂が見つかり、地面を掘っても(以前とは違って)地下水がないという状況が現れている。そして今、当局は旧市街の別の場所で再び大型ショッピング・センターと地下駐車場を造ろうとしている……。ラサは餓鬼に破滅へと引き込まれており、もう止められないという意味なのか? 国連教育科学文化機関(ユネスコ)は1994年、ポタラ宮を世界遺産リストに登録した。だが1996年、ポタラ宮の前で数百年続いてきたショル村(役人や職人たちが住んでいた村)が移転させられた。同時に、中国各地と全く変わらない、専制の威力を見せつける広場が造られ、ショル村を失ったポタラ宮に致命的に欠けているものをはっきりと浮かび上がらせた。 2000年と2001年には、「ポタラ宮の歴史的遺跡群」としてジョカンとノルブリンカを追加登録した。宗教と歴史、人文的な価値のある聖地を世界文化遺産にし、建前上は当然の保護を受けられるようにした。2002年、砲弾のような形の「チベット和平解放記念碑」がポタラ宮と向き合って広場に建てられ、チベット人の心に深々と突き刺さった。2007年、ポタラ宮は世界遺産大会で「イエローカード」を受けた。観光収入を過度に追求して自由に開発しながら、(保護の)責任を果たさず、(世界遺産条約の)取り決めを実現させておらず、世界遺産の称号が取り消される可能性もあると批判された。 遺憾なことに、今もポタラ宮では行き過ぎた観光開発が続いている。チベットへの観光客は毎年数百万を数え、絶えず増え続けており、足元は危険極まりない(見学者が多すぎて、ポタラ宮がダメージを受けている)。それだけではなく、「国際観光都市」を追求する過程で、ラサ旧市街までも姿を変えられている。腹を引き裂かれるだけではなく、問題を根本的に「解決」されようとしている。ちょうどチベット人芸術家の鄺老五がこう論評するように。「物質と権力の誘惑の前で、文化の独自性は失われつつある。一方、都市の共通点は逆に増えている。とうに内面を吸い尽くされた旧市街は、繁栄しているように見える背後で、既に盛りを過ぎた菊の花になっている。古めかしく、歳月の痕跡を残した物はもう見つけられない」 何年も前にラサ旧市街の修復に取り組んだドイツ人、アンドレ・アレクサンダーと彼のNGO「チベット・ヘリテージ・ファンド」(THF)を思い出す。彼らは1996年から2002年にかけ、ラサと周辺の76の歴史的な伝統建造物を救い、真相を語った。「1980年から都市建設の過程で、旧市街の古い建物と区画は絶えず破壊に遭っていた」「1993年以降、平均で35の歴史的建造物が毎年取り壊された。このペースでは、残りの歴史的建造物は4年以内にほとんど消え失せるだろう」。アンドレたちの際立った修復作業と証言は当局の意向に反していたため、一心に利益を追い求めてきた当局によって、彼らは最終的にラサから追い出されてしまった。 バルコル商城の「工事概況」によると、バルコル再開発の目標は「浄化、分散、改造、昇格」だ。旧市街はいくつかのブロックに分けられるという。旧市街の中心、つまりジョカンを取り巻くバルコルは徹底的に片付けられ、全ての露店は新築のバルコル商城内に移転させられる。バルコル沿いの住民はラサ市西部のトゥールン・デチェン県に引っ越しさせられる。速やかに移った世帯は2~3万元の補助金を受け取れるが、引っ越さなければ政治問題になる。引っ越しを望まないあるお年寄りは気が変になってしまったという。空になった住宅には業者を誘致し、商店やホテル、バー、画廊、展覧館などを設ける。旧市街のほかの路地や僧院のうち、例えばラモチェ前では大きな広場が整備され、周辺の住民は同じように郊外へと移転させられる。旧市街北東の城関区政府跡地はバルコル商城になる。 もちろん、宗教的な意味を持ったバルコルがこれだけで空っぽになるはずはないが、もっぱら観光客のために存在するにぎやかな通りには変わり得る。だが、もうチベット人が巡礼し、五体投地をする道ではなくなる。たとえ五体投地の巡礼者がいたとしても、観光客向けにその場を盛り上げる背景でしかない……。一つひとつの災難が立て続けに襲いかかり、ラサの結末は本当に痛ましい。歴史上、ラサで鉱山事故は一度も起きなかったが、今では起きてしまった。歴史上、ラサ河がせき止められて干上がったことはなかったが、今では魚も死ぬほど干上がってしまった。歴史上、ラサ旧市街は観光客のために存在する名所ではなかったが、今では麗江の四方街や「シャングリラ」のドゥコ・ゾン(雲南省シャングリラ県の古城エリア)方式で改造されようとしている。早い時期に、この偽物の「ラサ旧市街」は入場料を取り始めるのではないか? ある物はほかの物よりもずっと早く消えていく。ある物はほかの物よりもずっと多く押し寄せてくる。アンドレは感傷的に書いた。「訪ねるたびに古い住宅は明らかに減っていく。石一つ、レンガ一つ。路地1本、通り1本。犬までも姿を消していく……」。今では、権力者によって商業化された新しいラサがそれに取って代わろうとしている。今、私一人だけではなく、たくさんの人たちが深く愛した、残り少ないラサの風景が消えようとしている。今、私一人だけではなく、たくさんの人たちの生命が、ラサと関わり合った記憶とともに覆い隠されようとしている。あるネット仲間は激しく非難した。「古い建物を取り壊し、地下道を掘り、歩道橋を造り、ラサ河をせき止め、地下水を吸い上げる。。。あいつらは本当に餓鬼の生まれ変わりだよ。持っていけるものは全部持っていき、持っていけないものは全部ぶち壊すんだ!」 指摘しなければならないのは、この数年、内外のチベット人の焼身が「チベット問題」で最も突出した事件になっていることだ。限界のある国際社会の注目であれ、亡命政府の関心であれ、全て焼身に集中している。一方、チベット人社会が直面するほかの災難や危険は見落とされている。例えば、ラサ旧市街の破壊は目の前に迫っている。もし過去であればユネスコは「イエローカード」で警告しただろうが、今では少しも配慮していない。 中国政府はチベット人の焼身を重視している。昨年5月27日、2人のチベット人がジョカンとバルコル派出所の間で焼身した。この後、バルコル派出所はすぐに「バルコル古城公安局」に格上げされた。2人のチベット人が焼身前に泊まった「満斎ホテル」は当局に没収され、「ラサ市バルコル古城管理委員会」が設置された。歴史上、「バルコル古城」などというものが存在したことはないのだが、ラサ旧市街までも「バルコル古城」と命名された。当局はこの時から大規模な旧市街の改造を始めた。実はこれは一石二鳥で、「治安維持」の目的とそのための配置という側面がより強い。世の移り変わりをずいぶんと経験したジョカンの前には今、遠くカムやアムドから五体投地で来た巡礼者はいなくなった。何千何万ものバター灯明を昼も夜もともしていた小屋もなくなった。そこにいるのはただ、住宅屋上の狙撃手と完全武装でパトロールする兵士だけだ。そこにあるのはただ、官民が結託した巨大商業施設の相次ぐ開業だけだ。商業施設の入り口で、風に吹かれる真っ赤なバルーンの柱が、下品な成金のチベット侵入を誇示する風景だけだ。 ユネスコは約40年前、世界遺産条約が採択された時に考えた。「いずれの国民に属するかを問わず、この無類の遺産は特別の重要性を有しており、人類のかけがえのない財産で、世界の全ての国民にとって重要だ。文化遺産及び自然遺産のいずれかが損壊、または消失することも、世界の全ての国民の遺産の憂うべき貧困化を意味する。従って、人類全体のための世界遺産の一部として、保存する必要がある」 ここに、ユネスコなど世界中の関連組織に呼びかけます。この恐ろしい「現代化」がラサ旧市街の風景や人文、環境に許しがたく、計り知れない罪を犯すのをどうか止めてください! ここに、チベット学やチベット問題を研究する全世界の専門家と組織に呼びかけます。ラサ旧市街が直面している万劫不復(永遠に回復できない)の不運に関心を持ってください。 各界の人々がラサ旧市街を救う行動を展開するよう期待します! 私たちのラサがもうすぐ壊されます! ラサを救ってください! 2013年5月6日 (RFA特約評論) 注:次の写真はネット仲間が撮影した現在のラサ旧市街。 ・ジョカン前にカムやアムドの巡礼者はいなくなった。彼らには「入蔵許可証」がなく、ラサまでの巡礼路に設けられたチェック・ポストに止められるからだ。 ・ラサに住む漢人はネット上に書いた。「朝起きて、このおかしな通りを眺めている。とても大きな変化があったことに気付いていなかったんだ。以前は暇な時によく若い男の露店で談笑した。この十数年の習慣だった。こうした変化は僕らにとっては視覚的な変化、審美的な変化、生活習慣の変化だ。露店の若い男たちにとっては、生存のための環境と条件の変化だ。これは本当にチベットで暮らす人たちに関わってくることだ」 ・官民が結託した左側の大きな商業施設はオープンしたばかりで、入り口前の真っ赤なバルーンの柱がとても目障りだ。あるネット仲間は書いた。「見てみると、全く美しさがない。本当に吐き気がする。県城のホテル開業と同じようにやっていて、何も言いたくなくなる」 ・バター灯明をともしていたジョカン前の小屋は取り壊され、建て直されるが、計画内容はまだ分かっていない。 ・ジョカンを1周する巡礼路、バルコル。 ・バルコルを右繞するチベット人。 ・バルコル。 ・バルコルの建物。 ・ネット仲間は書いた。「東措(ユースホステル)の正面で大きな取り壊しだ。バルコル商城を建てるって。チベットのアクセサリーを売っていたバルコルの露店は今後、まとめてここに移るらしい」 ・建設中のバルコル商城の完成予想図。場所はバルコル北東の城関区政府跡地。 ・バルコル商城の「工事概況」によると、延べ床面積は15万平方メートル。地下駐車場だけで1117台を収容できるという。 ・少し前、ラサ河がせき止められて干上がった。ラサ旧市街に官民合同の巨大ショッピング・センター「神力タイムズ・スクエア」を造るため、地下水を昼夜吸い上げ、ラサ人を心配させた。旧市街を修復したアンドレ・アレクサンダーに「これは破壊につながるのでは」と私はメールで尋ねた。彼は心を痛めて返事をくれた。「あちこちで水力発電所を建設しているから、水はチベットで大問題になっている。ラサでも環境はもうひどく破壊、汚染された。貪欲な役人に支持され、貪欲な開発商がラサの谷間を大工場へと変えた。もし(市内の)ラル湿地が干上がったら手遅れになる」 ・ラサ河がせき止められて干上がったため、たくさんのチベット人が自発的にわずかな水の中から魚を助け出した。なんと悲しく、象徴的な意味合いを持つ光景だろうか! ・旧市街の蔵医院(メンツィーカン)路も掘り返されている。文化大革命の時、「四旧」を踏みにじってみせるため、僧院から奪われた無数の仏像がこの道に埋められた。今回の掘り起こしで仏像が発掘されるかどうかは分からない。 ・蔵医院(メンツィーカン)路。 ・ラサの道。 ・ラサ旧市街。 ・ラサ旧市街。 ・ラサ旧市街の通り。 ・ラサ旧市街の路地。

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Co-China周刊 | 刘瑜、周濂:理解“善”才能追求正义——迈克尔?桑德尔访谈录

  “只有国家与个人之间的中间团体很发达时,社群主义才会是一种多元的伦理观。这也是托克维尔的观念,他认为美国民主的要素之一就是中间团体的发达。所以,认同和社区的多元化,是社群主义伦理观的要素,否则所有的认同感向一个单位集中。” (三点说明:1,本次访谈的小标题及各节的导语是编辑先生另加的;2,这个访谈在发表时被和谐掉了两部分内容,我在这里将它们用黄色标注出来;3,录音整理是刘瑜同学做的。——周濂) 迈克尔•桑德尔(Michael J.Sandel,1953年3月5日-),哈佛大学政治哲学教授、社群主义(Communitarianism)代表人物。桑德尔于1975年毕业于布兰迪斯大学,在牛津大学贝利奥尔学院获博士学位。后到哈佛大学任教,从1980年起担任哈佛大学本科生通识课程“正义”主讲。其主要著作有:《自由主义与正义的局限》(1982年)、《自由主义及其批评者》(1984年)、《民主及其不足》(1996年)、《公共哲学》(2005年)。 编者按 2011年5月16日晚,应清华大学之邀,哈佛大学教授桑德尔在清华做了题为《正义:该如何是好?》的演讲。早在2007年5月,桑德尔在华的首场学术演讲,也在清华举行,那次的主题是《全球化时代的政治认同》。日前,南方周末编辑戴志勇约请清华大学政治学系刘瑜、中国人民大学哲学系周濂共同对桑德尔教授进行了访谈。这位社群主义(亦称共同体主义)的代表人物,在善与权利、德性与自由之间的种种分析,或可为中国读者带来新的思考维度。 奴隶制任何时候都是错的 正义和道德是否仅仅意味着某时某地碰巧流行的习俗?我的回答是:不是。在这个意义上,我不是一个相对主义者。 刘瑜:您可能已经听说,在中国,现在有一个关于“普适价值”的激烈争论。支持这个概念的人主张在中国引入更多自由和民主的因素,但反对这个概念的人认为它是西方文化霸权主义的外衣,那么,您怎么看待这个问题?您觉得存在超越文化和国家的“普适价值”吗?比如,在您看来,存在普遍的人权吗? 桑德尔:因为你刚才说到这场辩论的政治意义重大,所以我们应该首先弄清楚“普适价值”这个词的精确含义是什么。我想说两点,或者说存在两个问题,一个是哲学上的“普适主义”和“相对主义”。正义和道德是否仅仅意味着某时某地碰巧流行的习俗?对这个问题,我的回答是:不是,正义和道德不仅仅是恰好在某时某处盛行的习俗。在这个意义上,我不是一个相对主义者。 但在“普适价值”的辩论中有另外一个问题,那就是,我们如何找到超越特定时空的正义和道德原则?对这个问题,可以有不同的回答。有史以来,很多哲学家都在辩论如何找到超越“习俗”的正义和道德原则。 我觉得,如果把价值的普适性假定为把某一个地区的政治系统,强加给其他国家,那是一个错误,而且这个错误会引起人们对“普适价值”这个基本概念的反感。如果这种情况发生,那将是一个损失。 刘瑜:有人可能会说:不存在抽象的道德,道德总是被文化和历史所形塑的。比如,有人可能会说,对女性的歧视在特定的历史阶段或社会可能有特定的社会功能,您认为这种说法有道理吗? 桑德尔:在这里,我们需要具体地看历史上女性被歧视的案例。举例来说,在很多国家都存在偏爱生男孩但是排斥生女孩的现象,人们用堕胎、B超或者基因操控等方式来对胎儿进行性别选择,这是非常不道德的。但是,在谱系的另一端,比如说有些宗教社区存在对女性和男性的不同分工,有些人可能会说这是歧视,另一些人则会说这是一定宗教教义下的角色分化。那么,我认为用于评判第一个例子中的道德标准未必能用于第二个例子。这就是为什么我认为,当我们谈论“歧视”时,要搞清楚这个“歧视”背后的社会制度以及这个制度的含义,只有搞清楚了这一点,才能区分歧视和参与者们都能接受的角色分化。有些“歧视”也许是歧视,有些也许只是一个群体的自我认识方式———除非我们真正地了解了这种自我认识方式,我们不能轻易地指责它。 现在,我回到你的问题,道德是抽象的还是历史的?我认为道德既可以是历史的,也可以是普适的。拿奴隶制来说,美国因为奴隶制问题打了一仗。19世纪初,有些美国人认为奴隶制是不正义的,有些人则为之辩护。今天,2011年,我们往回看,我们可以非常轻松地说:“奴隶制是不正义的”。但这句话是什么意思呢?这并不是说奴隶制仅仅在今天是不正义的。它还意味着,即使在当时,奴隶制也是不正义的,就算当时有些人没有完全认识到这一点。那么这就是一个例子,说明我们有可能用一个道德标准来评判不同的时代。这并不是说道德没有历史的维度,我只是说我们有可能从道德上评判过去的实践———即使它已经是过去的,我们仍然可以说:“不,他们当时就错了,而不仅仅是今天错了。” 周濂:那么,您认为存在“道德事实”或者“道德真理”吗? 桑德尔:我认为“真理”这种说法可以适用于道德,就像它可以适用于历史。关于历史,我们可以同意它的确发生了或者没有发生,但历史事实也向诠释敞开,那些诠释当然是可以争论的。我想说,道德也是一样的。对道德真相存在争论这一事实,并不意味着它没有正确答案,就像存在不同的历史诠释并不意味着不存在一个历史真相一样。我认为道德可以是“真的”,就像历史可以是真的一样。我们承认存在不同的诠释、合理的争议,但这并不意味着它们可以等量齐观。 废除死刑与否,在于怎么理解“善” 让我们假定,砸死通奸者是符合伊斯兰法的,我们仍然可以质疑这种法是否道义上正当。 周濂:根据您的看法,社群主义之区别于自由主义,在于正义的观念必须要预设某种特定的善的观念。2010年在阿富汗,塔利班游击队判决用乱石砸死一对通奸男女。在某种意义上,他们的做法符合当地人的宗教和道德观念。那是不是意味着,塔利班的这个惩罚也是一种正义类型。您如何评价这种观点? 桑德尔:我的确说过,除非依赖于某种特定的善的观念,我们无法界定正义是什么。但我并不会说,不同的善的观念是一样有效的。我认为我们有可能去批评那种因为通奸而将人砸死的做法和观念。我不很了解伊斯兰法,但是让我们假定,砸死通奸者是符合伊斯兰法的,我们仍然可以质疑这种法是否道义上正当。 同样,在中国和美国,我们都有死刑。在美国,有很多人讨论死刑是否应该被废除。你可以问,死刑是否符合美国宪法所体现的善的观念?这要看你如何理解美国宪法。有些人可能会说,是的,这是符合宪法精神的;有的人则会说,不,死刑所体现的复仇精神、不人道以及对政府行为的过度信任并不符合宪法精神。所以,对宪法精神到底是什么,对宪法精神中的善是什么,存在争议。这是美国的例子。这个例子表明,死刑到底是否应该废除,并不仅仅是一个“权利”问题,而且是一个我们如何理解“善”的问题。 回到塔利班的案例,我不知道对如何诠释伊斯兰法是不是也存在争议,但从我对其他宗教的了解来看,它们一般对教义、对什么是善、什么是正当的惩罚机制都存在不同的诠释流派。理想的情况是,至少我希望看到,在伊斯兰信徒、学者和领袖当中,就现代世界中如何理解传统也存在着辩论。我们看到,在基督教、犹太教的历史中有一些“重新诠释教义”的重大时刻,那么对于伊斯兰教,也有可能出现这样的“重新诠释”时刻。我是这样理解这个问题的,因为我不想给一个完全抽象的答案。 各种共同体,多层次的认同感 爱国主义有黑暗的一面,尤其当它变成一种军事沙文主义或者一种固步自封的观念时,这使得很多人都把民族主义、爱国主义看作一种危险的力量。 刘瑜:我有一个相关的问题。您刚才指出,一定的权利观念取决于一定的善的观念。我同意这个看法,但是正如您所暗示的,一个更困难的问题是,如何区分相对合理的善的观念和相对不合理的善的观念?鉴于您是一个社群主义者,在您所倡导的“善的观念”中,很重要的一个因素是“忠诚和团结”。我一定程度上能理解您的看法,因为对认同的追求是人的天性之一,而且这种天性是人类政治生活中的一个重要因素。但问题是,如何区分“合理的忠诚”与“不合理的忠诚”?比如,对“爱国主义”这个概念,历史上存在着很多争论,那么,在您看来,我们能找到一种途径,来区分“好的爱国主义”和“坏的爱国主义”吗? 桑德尔:我不认为有一个简单的方法可以区分二者,但这是一个非常重要的辩论。在世界上很多国家,爱国主义都有黑暗的一面,尤其当它变成一种军事沙文主义或者一种固步自封的观念时,这使得很多人都把民族主义、爱国主义看作一种危险的力量。另一方面,如果你认为认同感势必为一定的社区所形塑,那么国家、民族是这种社区中的一种重要形式。所以挑战是,如何尽量去强化认同感当中“相互责任”的部分,但又不滑入沙文主义或者固步自封的爱国主义。很难说存在一个简单的标准,这只能是一个在普世主义和特殊主义之间不断协商调整的过程。 周濂:学者谭米尔认为,如果我们必须接受民族主义,那么“自由的民族主义”是最可接受的,您怎么看这个说法? 桑德尔:我认为她的说法有相当的吸引力。但在自由主义和民族主义之间存在着一定的张力,我们能否找到一种“自由民族主义”?这是一个很困难的问题,不过我很尊重她试图融合二者的努力。 在“自由民族主义”之外,另外一种将民族主义看作建设性而不是破坏性力量的视角是,不同层次的社区对我们形成不同的规范。民族主义只是认同感的一种,但我们还有对人类共同体的责任感、对家庭的认同、对语言共同体的认同、地方主义等不同层次的认同感。现代社会的一个有趣之处就是,我们需要找到方法,使得人们能够在“多层次、多维度的忠诚”中生活———有些可能是相对普世的认同感,有些可能是相对狭窄的———那么,民族主义只是这些认同感中的一种,它必须与更高和更低层次的认同感竞争,就是说,民族主义需要接受来自上方以及来自下方的挑战。这种竞争可以是一件非常健康的事情。不过,困难在于,人们发现协调不同层次的认同感并不容易,它可能导致焦虑、恐惧,以至于有些人会坚持抓住单一的主权国家认同,而这恰恰导致我们前面谈到的危险。也就是说,危险民族主义是现代病的一个表征,因为现代生活要求我们生活在多重社区和多重认同当中,这令很多人恐惧不安,而当人们恐惧不安时,他们可能选择一种简单认同来消除困惑和焦虑。 多元社群是共同体主义的基础 允许多元化存在,这很重要,这是社群主义伦理的一个条件。 周濂:您可能知道,在中国,公共领域和公民社会还相当弱小。在这种情况下,您认为倡导社群主义会有强化国家主义的危险吗? 桑德尔:这是一个非常好的问题。当公民社会很弱小,鲜有中间机制来协调国家和个人的关系,社群主义的理念可能会是危险的,因为在这种情况下,人们可能认为认同感要么只能是国家主义的,要么只能是个人主义的。只有国家与个人之间的中间团体很发达时,社群主义才会是一种多元的伦理观。这也是托克维尔的观念,他认为美国民主的要素之一就是中间团体的发达。所以,认同和社区的多元化,是社群主义伦理观的要素,否则所有的认同感向一个单位集中。 刘瑜:如果说一种健康的社群主义取决于社群的多样化和多元化,那么,是否可以就此推论,一种健康的社群主义事实上也取决于自由主义的土壤? 桑德尔:我可能会说“多元主义”而不是“自由主义”,因为自由主义往往隐含着个人主义的内涵。 刘瑜:您之前说“一定的权利观念取决于一定的善的观念”,那么是不是也可以说,“一定的善的观念取决于一定的权利观念”?这是因为,如果健康的社群主义需要多元化的前提,但只有在一个有相对自由和尊重权利的社会里,“多元化”才是可能的。 桑德尔:允许多元化存在,这很重要,这是社群主义伦理的一个条件。如果你要把这种多元化的土壤称为“自由主义”,你可以这样说。 刘瑜:对,这是我理解的自由主义。 桑德尔:但这是一种“托克维尔式”的自由主义,非常不同于那些强调个人而不是社区的自由主义。因为自由主义可能存在不同的解读,所以我必须澄清我的看法。如果你认为社群的多元化是你理解的自由主义,你可以这样说,但这与我所理解的、影响深远的另一类自由主义是不同的,后者强调更多的是个人自主性、个人的多样性而不是社群的多样性。如果你对自由的理解是托克维尔式的,那么这和我的看法一致。 周濂:我的问题是,如何理解托克维尔的观点?在您的书中,您称他为“共和主义者”,但刚才您又称之为“自由主义者”…… 桑德尔:我只是顺着她(刘瑜)的逻辑在表述而已。我们必须清楚我们所说的“自由主义”、“共和主义”所指是什么。在我的书中,共和主义有两个方面,一个是人们共同治理国家;另一个则是公民共同培养德性,形成好的心灵习性,向“共同善”靠近。这和古典自由主义是不同的,因为古典自由主义并不倡导公民教育和共同善精神,而是强调每个人自我选择的权利。 托克维尔式的共和主义 我个人倾向于反对那种“过度的个人主义”意义上的自由主义,而同情那种强调公民德性和共同善的观念传统。但我不希望自己的观念被用来为单一的、排他的“主权意志”辩护。 周濂:对,您在书中提到两种共和主义,一种是卢梭式的,一种是托克维尔式的。 桑德尔:对,我倾向于托克维尔式的,因为卢梭式的共和主义存在向单一“主权意志”靠近的风险,而那正是我们之前谈到的危险。我之所以偏好托克维尔,是因为他一方面强调自治和分享,另一方面也强调公民德性和品格的培养,而且他强调社群的丰富与多样。这是我对托克维尔的共和主义的理解。很多自由主义者反对对公民德性和品格的培养,因为他们认为这妨碍了个体选择自己偏好的德性和品格。这是为什么我坚持区分两种自由主义,你们明白我的意思吧?只要我们区分了这两种观念,并且知道我们使用概念的含义,那么我们用什么标签就并不重要了。 我想补充一点,在我与自由主义者的这场辩论中,一个关键的分歧就是培养公民德性和品格的重要性。我认为对于一个好的社会,这是必不可少的。在一个多元的社会里,公民教育、共同善非常重要,而很多自由主义者对此持怀疑和警觉的态度。这是西方自由主义内部的一场辩论。我个人倾向于反对那种“过度的个人主义”意义上的自由主义,而同情那种强调公民德性和共同善的观念传统。但我不希望自己的观念被用来为单一的、排他的“主权意志”辩护,这与我的多元主义观念是不相符的。 公共生活需帮助公民实现潜能 有人将自由理解为纯粹的个人选择,而有人则将自由理解为最大程度地促进人们实现自己的潜能。后者是共和主义的、托克维尔的、亚里斯多德的传统。 刘瑜:我想提一个与之相关的问题。刚才您谈到自由主义与共和主义的区分。在您的书中,您则强调了自由主义、功利主义、社群主义等不同的正义观念。因为您强调它们的不同之处,那么,我想问的是,在这些不同之外,它们是否存在相同之处?它们是否都假定了一定的底线自由? 桑德尔:它们都关切一定的自由,但它们对自由的看法不同。最大的不同在于,有人将自由理解为纯粹的个人选择,而有人则将自由理解为最大程度地促进人们实现自己的潜能。后者是共和主义的、托克维尔的、亚里斯多德的传统,在他们看来,我们的自由并不仅仅是在市场中进行选择的自由;只有当我们能够参与到那种帮助我们实现潜能的公共生活时,我们才是自由的。这是我所支持的自由观。自由放任主义者和功利主义者则强调“选择的自由”,我称之为“消费者式的自由”,而这种自由观在我看来,忽略了我们作为人类去追求实现潜能的能力。 刘瑜:我提这个问题的原因是,在西方社会,今天你们的辩论是相对技术化的,比如,“平权行动”法案是否合理?“福利国家”的尺度何在?你们不再辩论人们是否应该拥有基本的言论自由。但在另一些国家,人们对这种基本自由的价值还存在争议。在这个前提下,找到不同正义理论的相通之处可能就比强调它们的不同更重要了。 桑德尔:我知道你的意思,我同意同一个辩论在不同的国家可能有不同的内涵。在我们的国家被视为根本对立的辩论,在另一个国家可能会被视为同一个立场里的小分歧而已。从远处看别国的政治和哲学辩论,经常会有这种感受。我觉得能在另一个背景下———比如在中国———和你们这样的学者或者中国学生讨论我的理论,是件非常有趣的事情。也许我的理论对于理解思考中国有点小小的帮助,但是显然,通过了解你们的辩论框架,我能学到的比能教导的要多。这是一个学习的过程。 儒家传统里有丰富的“德性政治”洞见 西方社会中复兴亚里斯多德德性伦理的努力,和中国社会中某些学者企图复兴儒家德性伦理的努力,两者之间有种有趣的关联。 周濂:四年前,我在清华听过一个您的讲座。在那个讲座中,您提到了儒家文化中的“亲亲相隐”观念。在您看来,在今天的中国,儒家传统能够有什么样的功能?儒家传统在中国会有像亚里斯多德传统在西方那样的生命力吗? 桑德尔:我希望我能够对儒家传统所知更多,但我并不了解,所以我不够格回答这个问题。不过,据我所知,儒家传统有关于“德性政治”的丰富洞见。我的书是在西方的亚里斯多德传统中倡导德性伦理,我不能判断现代中国需要什么样的德性,但我的确认为,西方社会中复兴亚里斯多德德性伦理的努力,和中国社会中某些学者企图复兴儒家德性伦理的努力,两者之间有种有趣的关联。对他们的相似和不同之处,我很有兴趣进一步了解。为实现这一点,途径之一就是研究西方亚里斯多德传统的学者和研究儒家传统的学者一起阅读彼此的一些理论经典,共同讨论,相互学习。 先有善,才能确定何谓正义 我并不想取代宽容、公正这些观念,但我想探讨实现宽容、公正、多元的必要条件是什么。 周濂:在很多地方,您谈到,宽容、公正等“自由德性”并不足以支撑现代社会,那么您认为,在现代社会,哪些德性是最重要的?我们有可能复兴古代的德性,并以之取代现代的自由德性吗? 桑德尔:我并不认为我们需要“取代”宽容、公正等德性,这一点我想说清楚。我关注的问题是,如果没有对什么是“善的社会”、“善的生活”的理解,宽容公正等“自由德性”是否可能独立存在?甚至宽容、公正、多元这些概念本身,如果不借助于一定的“善”的观念,也是不可能的。所以说我并不想取代宽容、公正这些观念,但我想探讨实现宽容、公正、多元的必要条件是什么。我认为,在可能为这些自由德性提供的思想资源当中,一些古典文本,其中关于公民德性、共同善的观念,是非常重要的。 周濂:您认为存在一个德性的高低排序吗?您认为宽容和公正是现代社会中最重要的价值吗? 桑德尔:我不认为这是一个价值排序的问题,因为我和自由主义的辩论并不是因为我认为他们太强调宽容和公正了,而是他们为宽容公正等“自由德性”提供的基础不够坚实。我并不想找到比宽容、公正更重要的价值,我只是想给它们一种新的诠释,使之有一个更深厚的道德以及实践基础。所以我不想找到一个宽容公正“之上”的东西,只是想— 刘瑜:找到宽容公正“之下”的东西。 桑德尔:对,“之下”以及“之中”的东西。 公民有效参与,以绽放人的潜能 我所理解的好社会,是那种帮助人们实现最大潜能的社会,让人们最大限度地“绽放”。对民主最好的辩护来自我们对人类潜能绽放的向往。 刘瑜:我还有一个问题。您在书中谈到,“同意”既非道德义务的充分条件,也不是它的必要条件—— 桑德尔:这让你有所不安。 刘瑜:对,因为民主的精神在很大程度上是同意的精神。如果“同意”并非道德社会的前提,那么我们是不是可以说,道德社会并不需要民主?或者说,在您看来,如果没有民主,我们可能建立道德社会和正义社会吗? 周濂:我也有相似的问题,因为在当代中国,在民主问题上存在重大的辩论,而您写了一本《民主的不满者》,所以我们想知道您的看法。 桑德尔:我所理解的好社会,是那种帮助人们实现最大潜能的社会,让人们最大限度地“绽放”。这可以追溯到亚里斯多德的政治观念,而这一观念的一个重要组成部分是“分享”和“自治”。亚里斯多德认为,“分享”和“自治”是人类“绽放”的一个必要因素,因为他认为人类的本性之一就是共同商讨什么是“善”。我认为这是一个非常有力的观点。如果那样的理想是值得追求的,那么,接下来的问题就是:什么样的政治体系能够促进人们在政治当中实现有意义的参与?我们今天看到的世界上各种形式、程度不同的民主———尽管有其不完美之处———似乎指向那个理想。它们肯定还没有实现那个理想,比如金钱在政治竞选当中还是影响太大,导致人们在政治当中还不能完全有意义地实现参与,但民主制度至少指向那个理想。 刘瑜:那么,您的意思是,民主是意义重大的,但其意义不在于实现“同意”,而在于它帮助人们实现“分享”和“自治”,从而实现人类潜能的绽放? 桑德尔:对,那正是我的意思。很多西方的哲学家可能会不同意我的看法,他们可能会说:把人类潜能绽放作为政治的目标,这太理想化了,太苛刻了,民主的意义在于给人们追求自利时有一个政治渠道,投票的含义就是表达你的个人偏好而已。我认为这种说法削弱了民主的含义,因为它把民主看成市场的一种,这是一种“消费主义”的政治观。这就是为什么我强调对公益的协商、多元化的意义,以及实现人类绽放的终极目标。有些人持个人主义的民主观,但我认为对民主最好的辩护来自我们对人类潜能绽放的向往。 市场不是目的,只是工具 市场对于组织生产、制造繁荣是一个宝贵的工具,但市场不是生活的全部,因为存在着“市场价值”将“非市场价值”挤出我们的视野的危险,这些“非市场价值”包括正义、公正、平等、社区感以及人与人之间的相互责任感。 周濂:1998年,你在一次演讲中讨论了“钱不能买到什么”这个问题以及市场的局限性。您可能已经注意到,中国现在是一个高度商业化的社会,您对这种状况有什么建议吗? 桑德尔:我的建议和我对美国社会的建议一样,因为美国也是一个高度商业化和市场化的社会。我的看法是,市场对于组织生产、制造繁荣是一个宝贵的工具,在中国,过去几十年市场也非常有效地促进了社会繁荣,但市场不是生活的全部,因为存在着“市场价值”将“非市场价值”挤出我们的视野的危险,这些“非市场价值”包括正义、公正、平等、社区感以及人与人之间的相互责任感。美国存在这种危险,欧洲有些人也担心这种危险,在中国,当我得知市场的势头时,我也有同样的担忧。所以我的建议是,市场是促进繁荣、组织创造性生产的工具,而且是宝贵的工具,但它不是目的,一些更重要的、道德的目标不应该被遗失或者遗忘。事实上我现在正在写的书,书名就叫《钱不能买到什么:市场的道德局限》。 周濂:我的最后一个问题是,您如何描述中国的政治体系? 桑德尔:你能给我一些选项吗? 周濂:比如,社会主义?民族主义?资本主义?等等。 桑德尔:我应该问你这个问题。你怎么回答这个问题? 刘瑜:也许上述选项都是对的……好了,桑德尔先生,我们已经用完了采访时间,非常感谢您接受访谈。 桑德尔:谢谢,我非常享受我们的谈话。 (录音整理:刘瑜) (刘瑜,清华大学政治系副教授,哥伦比亚大学政治学博士。 周濂,人民大学哲学系副教授,香港中文大学哲学系博士。) 【原文链接】

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BBC | 台湾要求菲律宾追查枪击台籍渔船凶手

台湾渔船在台菲经济海域重迭区遭到一艘菲律宾船只开枪攻击但台湾外交部则未证实攻击者是菲国军舰 台湾的一艘渔船在台菲经济海域重叠区遭到一艘菲律宾船只开枪攻击,台方要求菲律宾对这起造成一名台湾渔民死亡事件追凶。 周四上午发生的攻击事件除了造成台湾渔船"广大兴28号"严重破损失去动力外,并打死了在船上的台湾渔民洪石成。 枪击发生地点在北纬20.07度,东经123.01度海域,广大兴28号当时正在作业捕捞季节性回游该海域的高经济价值蓝鳍鲔鱼。 渔船在遭攻击后向台湾渔业电台通报求救,据台媒广泛引述台湾渔业电台指出,广大兴28号表示攻击者是菲律宾军方,其使用机枪扫射。 台湾外交部则未证实攻击者是菲国军舰,其引述台海巡署的报案信息说,该菲籍船只灰色船身、白色船舱,事发当时广大兴28号未留意该菲籍船只编号。 台外交部除要求其驻菲律宾代表处向菲国相关单位查明本案,同时也约见了菲律宾驻台副代表艾奎诺,要求菲方追捕肇事船只与凶手,立即查明真相将凶手绳之以法。 失去动力广大兴28号渔船已由当时在附近海域作业的其它渔船拖救,此一拖救进行时台湾海巡署的武装舰艇"台南舰"也前往戒护,但未在海上遭遇发动攻击的菲方武装船舰。 台湾渔船在此一台菲经济海域重迭区捕鱼时,经常被菲律宾指控侵入领海,相对于台日在今年的渔业谈判签署正式协议,台菲间则没有这种对争议海域渔权的清楚划分。 历年在该海域发生多起台湾渔船被菲律宾当局指控非法侵入的扣押事件,被扣押渔船一般则在缴纳数万美元罚款后被释回。

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BBC | 中国官媒评北京警方回应朱令案意见相左

北京警方又关朱令案的声明没能平息争议。 中国官方报章纷纷就北京警方回应清华大学女生朱令遭投毒悬案的声明进行评论,但意见相左。 中共《人民日报》星期四(5月9日)发表署名评论文章,引用最高法院副院长沈德咏基近日发表的文章称“消除疑虑最好的办法就是公开”。 但该报旗下的《环球时报》同日发表的社论给出几乎相反的看法。社论认为,即使警方继续回应,也难以平息质疑。 北京警方星期三(8日)通过其官方微博发布消息称,对朱令案仍未获取认定犯罪嫌疑人的直接证据,碍于证据灭失等客观因素,此案最终无法侦破。 获14.5万人关注的媒体人哑巴在其认证微博称,朱令母亲朱明新在得知北京警方的声明后,再次质疑警方为何不公开案件信息:“为什么不理我?我的疑问能不能给我个说法?” 《新京报》则引述朱令父亲吴承之说:“警方的通告已经看到了,我们对于此事的想法,仍然是我前些天不断讲过的那些,希望案件的侦破过程和案情等内容得以信息公开。” 党报“内讧” 按键 《人民日报》的评论说 :“尽管如网友所言,在‘民间断案’经年累月地发酵升级之后,这份迟到的回应,确实有些姗姗。但北京警方敢于直面这一积年已久的刑事案,并做出自己的说明,这对19年悬而未决的朱令案而言,无疑是一个可取的态度、一个可以期待的开端。” 评论说,“不透明是‘阴谋论’的温床”,民众围绕朱令案的猜测“让社会付出了高昂成本,也透支了人们对司法的信心”。 《环球时报》社论则说:“昨天微博上立刻有一些人拒绝接受北京警方的声明,提出一系列细节性追问。看来警方的回应无法平息舆论中的情绪,即使警方继续回应,追问将层出不穷,事情将更加轰轰烈烈。” “这很可能也是官方有时选择‘低调处理’的原因,他们可能觉得既然沟通达不到效果,越沟通乱子越大,不如让事情慢慢自行冷却。” “各官方部门都有一个很大问题,那就是权威和信任度支撑不住来自舆论的质疑。一旦质疑发生,官方可以用来守护信用的资源很少,谣言都能成为有力的炮弹。” 《环球时报》的这篇社评被人民网手机版等广泛转载,但环球网本身并未上载其内容。《环球时报》总编辑胡锡进 按键 则在其认证微博上转发全文 。 “疑罪从无” 在中共北京市委宣传系统下的《京华时报》和《新京报》则聚焦于“无罪推定”原则之上进行评论。 《京华时报》特约评论员的文章说:“直到今天,我们仍未能解决‘有罪推定’的陈苛。此番北京警方就‘朱令令案’再次申明的办案原则,实际上说明19年前就为今天的中国司法理念纠偏树立了一个标杆。” “而从法律上说,我们其实真的无从评判来自网友爆料的那些‘证据’。网民不是福尔摩斯,我们也不是法官,基于自然理性的朴素正义观而表达,这本身也值得尊敬。” 《新京报》刊登法律学者毛立新的评论文章则说:“贯彻‘疑罪从无’并不意味着可以忽视被害人的利益和感受。对被害人及其亲属而言,一方面由于案件尚未完全侦破,实体公正落空;另一方面,由于得不到相应赔偿,经济上可能遭遇困难。” “因此,对公安、司法机关而言,既要通过不懈努力,尽快破案,在这过程中,还要做好解释和沟通工作,告慰被害人及其亲属,并做好必要的告知和信息公开,满足各方的知情权。” 另外,最新一期南方报业集团旗下的广州《时代周报》针对网民质疑朱令案久未破案的现象称,“‘无案不破’的社会才可怕”。 该报刊登湖南湘潭大学哲学讲师孙乐涛的评论文章说:“可以想象的是,如果历史上出现一个破案率百分之一百的社会,那这些全部的‘真相大白’中,又会有几多冤案?” “想想不久前浙江女神探制造冤案的故事,其中道理,不难知晓。”

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